科研費 CaseStudy 8
糖尿病による海馬機能低下のメカニズム
薬理学研究室 助教 小菅康弘
図1. 糖尿病およびその予備軍の推移
食生活や生活習慣の急激な変化により、糖尿病の患者数は世界的に増大し、21世紀最大の疾患の一つと考えられています。厚生労働省の発表(国民健康・栄養調査、図1)によると成人のおよそ6人に1人は糖尿病ないしはその予備軍と推計されることから、糖尿病は21世紀の国民病として注目されています。糖尿病は、細胞内への糖の取り込みに重要なインスリンの作用不足のために糖代謝やタンパク質代謝、脂質代謝に異常が生じ、慢性的な高血糖の結果、特有の糖尿病合併症をもたらす病気です。なかでも、網膜症、腎症、神経障害といった合併症は、三大合併症ともいわれており、患者の余命や日常生活に大きな影響を及ぼします。それゆえ、治療法の確立は、患者自身のQOLを高めるばかりでなく、介護の負担を減らし、医療費の減少にもつながります。これらの病態メカニズムの解明や治療・予防法の開発は、国内外を問わず、多くの研究者により行われていますが、三大合併症以外の合併症については、未だその病因の包括的な理解に至っていないのが現状です。
これまで、「糖尿病が記憶や学習という脳の高次機能に悪影響を与える」とういうことはよく知られています。そのため、記憶の形成に重要な役割を演じている海馬は、糖尿病により障害を受けやすいことが予想されます。そこで、私達の研究グループでは、薬物(ストレプトゾトシン)投与により糖尿病を発症させたモデルマウスや培養細胞を用いて、慢性的な高血糖が神経細胞の機能に及ぼす影響を解析するとともに、その病態メカニズムについて研究を進めています。
図2.共焦点レーザー顕微鏡で
観察したSHSY5Y細胞の
神経突起(PSD-95を免疫染色した)
神経細胞の情報の受け渡しは、シナプスと呼ばれる接合部位を介して次の神経細胞に伝えられます。シナプスは、結合の相手、数、強さなどを変化させることにより精密な情報伝達を行っています。なかでも、神経細胞の樹状突起上に存在するシナプス結合部の後部であるスパインは、刺激に応じて構造変化を起こすため,これが記憶・学習の細胞基盤であると提唱されています。そこで、共焦点レーザー顕微鏡により、培養海馬神経細胞やSHSY5Y細胞(ヒト神経芽腫細胞)の神経突起やシナプスの形態変化を観察しました(図2)。その結果、慢性的な高血糖(高グルコース状態)は、神経突起の変性やシナプスの減少を引き起こすことを見出しました。しかし、高グルコース状態の持続は、神経細胞の生存率には影響を及ぼしませんでした。また、糖尿病モデルマウスの海馬においても、神経細胞死の出現に先だち、スパイン構成タンパク質の1つであるPSD-95の発現低下が認められました。近年、アルツハイマー病の脳でも、神経細胞死よりも早期に起こるイベントである神経突起やシナプスの減少が記憶障害に重要な役割を演じていることが報告されています。これらの結果をあわせると、血糖コントロールの破綻は、神経突起の変性やシナプス減少を引き起こす事により、記憶・学習を司る海馬の機能低下に関与することが示唆されました。現在は、このシナプス(スパイン)の変性に関与する分子の同定を行うとともに、シナプス(スパイン)形成を制御する化合物の探索を行っています。本研究により、障害を受けたシナプス(スパイン)を回復させる化合物が見つかれば、糖尿病に伴う海馬の機能低下を抑制するだけでなく、アルツハイマー病の治療薬になり得るのではと期待して研究に取り組んでいます。